2006年 09月 18日 ( 1 )

建築は誰のものか

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巨匠たち
先日夕方から四天王の一心寺へ「関西の三奇人ふたたび」なるシンポジウムへ出かけた、三奇人とは安藤忠雄・毛綱モン太(遺影)・渡辺豊和氏のことを指すらしい、この「・・・らしい」と言うのは私自身建築の門外漢であり建築に興味を持ちだしたのも比較的新しい、どちらかと言うと現代美術まっしくらだったのだから脳天気なモノかも知れない

渡辺氏の師でもある建築家「山口文象」と仲間でもあった「毛綱モン太(毅曠)」の話をまとめた出版記念もかねているようだ、と言っても私には渡辺・山口両氏に関して予備知識はまるでなく「毛綱」の二文字で参加したと言っても過言ではない

渡辺氏の話から始まったのはいいのだが話に入っていけない、70近いというのに早口でいきなり建築仲間に話すかごとく固有名詞だの固有組織だの私の知らない単語が次々と繰り出されてきたからである、氏が長年大学の教授をやっているとは俄信じられないほど不明瞭なのである(笑)結局全体の話がつかめたのが第三部(始まって二時間半後)に入ってから建築雑誌の編集長でもある藤原光政氏の話を聞いてからで、最初は間違ったシンポジウムに来たかなと一抹の不安と畳部屋による腰痛で早退しようかと思ったぐらいだが根性で最後まで何とか逃げずにいました

今日の話は理論整然と今の私の知識で書けないことを先にお断りしておく、ただ言えることは今の建築家に絶望したと言っても良いかも知れない、昨年来の構造計算疑惑などが私の思考の澱となって沈滞し建築家不振がぬぐい去れていないのも理由の一つかも知れない

建築における芸術性がさかんに語られていた、彼らにとっての芸術性とはどうも独自性のようである、そこで思考回路が行き詰まってしまう、現代美術の独自性なら何となく判るが建築における芸術性・独自性とは本当に必要なモノなのだろうか?またその度合いが建築家評価のメルクマールになっているのは私の今日のタイトル「建築とは誰のものか」へ繋がる

モニュメントや人が住まない公共建築物(これも問題はあるのが)ならば芸術性・独自性はある程度許されるかも知れない、美術や音楽などの「個」における創造物では自由な部分が多いが、個人住宅や公共施設で個の独自性が強調されると見た目はコンセプトがはっきりしていて魂(この言葉も良く出ていた)があり芸術性の高さは一目瞭然なのだが・・・はて?

この建築家の芸術さとは往々にして使い勝手を悪くさせる!つまり頭でっかちの空間になり部屋から部屋を移動するのに傘が必要だったり、台を置かないと使えない台所や展示スペースより広いロビーや廊下がある美術館ができたりする

建築とは誰のものか・・・やはりそれは生活する利用する側のものである、次から次へ映し出される巨匠たちの過去の作品を見ていると、その大半が面白いけれど絶対に住みたくないと思ってしまう、もしあのスペースで育ったならかなり感性の違った子供が出来上がり面白いっちゃオモシロイかも知れないがそれはあくまで別問題である(笑)

だからといって無個性の建築物や先日見て回った都市住宅公団のようなレイアウトは許されものではなくこちらは建築以前のレベル、巨匠たちに構造計算疑惑や建て売りのマンションをどう思っているのか是非聞きたいものである

最後に出来レースでもあったオリンピック誘致の日本候補が東京に決まった時の発表の席で、某傲慢都知事の横に安藤氏の姿をニュースで見たのがショックで現代建築家の商魂と限界をかいま見たような気がした
by PUSH-PULL | 2006-09-18 09:09 | ご託&うんちく | Comments(0)

公園ののららちゃん 良い顔してます


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