昨日のブログをもう一度読んでみて、文字とは作品を見て感じたこととは別の世界の創造空間であることに気づく、他人様の作品を言葉にするのは不可能な行為かも知れない、「モノ」とは見たままが全てであり言葉は不要である、言葉あるいは文字とは目の前に存在する「モノ=オブジェ」とは異次元の概念なのである
用としての言葉は論理的な積み重ねがあれば成立しうるが、オモシロサやウツクシサなどの得体の知れないモノを文字に表す作業は疲れる、言葉で近似値的な空間あるいは引用を駆使しモノにすり寄ろうとするのだが殆ど大失敗する、それほど「モノ」の持つ力の方が強いからかもしれない
タマゴや綿帽子の作品を見ているとゆらぎあるいはぶれを感じる、昨日も引用したが「ふるふる」「フタフタ」なる言葉で代用したのだがそれが的確だあるかどうかは、読む側のそれぞれの立ち位置によってまるで印象は異なる、常に不確定な存在としてにじみとズレがある
タマゴと言葉にしたことでモノは存在しうる、ただ頭の中で描かれたタマゴは浮かぶと直ぐに泡のように消え去る、必死に意識の中に固定する作業として言葉が生まれる
デジカメでストロボを焚かずに夜景を写すと先ほどの言葉の私なりの近似値の映像が生まれる、それは「にじみ」に近いかも知れない、実際に見て認識したモノがいかに曖昧模糊として理解していないことか、それは親であり兄弟であり友であり連れ合いの関係でもある
映像とは私にとって欠かせない、つたない言葉の不足部分を十二分に補ってくれているのだ