植松奎二展

植松奎二展_b0057679_8452324.jpg
浮遊感
先日から香枦園の大谷記念美術館で彼の「時間の庭へ 植松奎二展」が開かれている、ここ10年に渡るコレクションと新作が展示されている

植松奎二展_b0057679_8453311.jpg彼を初めてであったのは30年以上も前のことで、直接彼のパフォーマンスを見たわけで無いが美術館の部屋の入り口で水平の体の写真を見たのが最初で凄く印象的だった、モノを作るわけでなくその頃の私も同じような方向を意識していたので余計にインパクトがあった

もう一つは彼の経歴で、私の周りの作家はほとんど言っていいぐらい東京芸大だの京都美大だの金沢美大だの4年制の美術大学を出ていたのだが、私と同じように教育系の美術学部出身で(彼は神戸大学)余計に興味を持ったこともある、現代美術展や京都アンデパンダン展で同じ会場に出品していたはずなのだが・・・意識はしていたが個人的な接触はなかった

それ以後私は美術の世界から離れたが、彼はその後もどんどんと進化を続け面白い作品を作り出していった、それが1999年のGallery KURANUKIの展覧会に、それも友達に誘われ見に行ったのがきっかけで急速に親しくなった(彼はどう思っているか知らないがね)、それから案内状が来るたびに頻繁に彼の作品を見ることになった

私自身が彫刻を勉強していたにもかかわらず、どうしてもモニュメント彫刻が好きになれなかった、つまり何処の国に行っても日本でも公園や街角にある、金属や石の作品のことである
こんな低レベルのことを意識するようになったのは、野外彫刻展で受賞する作品あるいは買い上げ作品は素材がポイントで時間的に持続することが条件なのである、関根君のように須磨の野外彫刻展で大地に穴を掘りその掘った土でバカでかい円柱を作る作品で受賞したが、あくまでも新聞社の賞であった

つまり仕事と生業の区別がはっきりしていて、作られたモノそのものが生業としてしか成立しないのである、仕事としての作品はなかなか評価されない
勿論立体造形を否定する訳ではなく好きな作家は存在する、勿論植松氏の作品もその一つであるが彼にこんなことを言うと失礼かも知れないが不器用なのである、いま「不器用」という言葉を上手く説明できなのだがそこが私には好きな理由の一つでもあるのだ

立体作る人間にとって一つの魅力的なテーマが「浮遊」あるいは「無重力」「位相」なのである、つまり現実にあり得ない空間を創造し見る側にその不思議感を味わって貰う、彼の今回の一連の作品を見てますます強く感じた、物体の持つ重力を拒否する微妙なバランス感覚が彼の作品を成立させ緊張感を作り出しているのではないだろうか

他にも蛍光灯を使った作品をここ数年前から作っているがこれもなかなか面白い、私が一番感動したのは2002年ノマルエディションに出品された、延々と水が落ち続ける壁一面の映像作品「落下する水/上昇する水」で、その場で彼に「これは面白い!」と絶賛した記憶がある、彼の持つとぎすまされた感覚に一瞬触れたような気がしたのだ
by PUSH-PULL | 2006-06-16 09:01 | アート・デザイン | Trackback | Comments(0)

珍しく我が家のマイマイが甘えに来た、正式名は「シャー・アズナブール・マイマイ」と申します


by PUSH-PULL