一番著名な「泉」はポスターに使われ地下鉄の中吊りにもなっていたのでご存じの方も多いと思うが、これが美術と問いかけられて「そうです」と答えられる人はほとんど居ないと思う「何でこんな便器が作品になるの?」が一般的であろう
「レディメイド」これが彼のキーワードであった、大量の工業製品にサインをしたり文字を書くことによって物の世界から理念の世界として認知する「私はそれらについて考える。探したりしない。物が私を発見するのだよ」
驚くべきは1917年にこの作品が作れれていること、今でも始めての人にとっては驚きをもたらすが、抽象の概念がまだ定着していなかった時代にこういったコンセプチュアルな作品を考えていたとは・・・
「審査無し、懸賞無し」の独立芸術家協会展に、彼は偽名「R・マット」で出品したのである、勿論協会の主旨とは無関係に猥褻・不快という名の下に葬られたのです
まだコンセプチャルアートなる言葉の深い意味すら理解せぬまま作品を作っていた私には、デュシャンは謎であった。何を作っていても非常に気になる存在で、たまに美術雑誌に載る彼は美術界とは距離を置きひたすらチェスを指していた、結果的にはその頃に《遺作》を制作していたことになるのだが
姿の見えない美術館が大阪の都心に誕生した、全て地下に展示室を設けた国際美術館である。シーザー・ペリの設計で大阪では他に馬場町のNHKがある、地下に美術館を作ったというのは大賛成だが、竹をイメージした地上のステンレスオブジェは私と友人と意見が分かれるところである
梅田にある村野東吾氏のジュラルミンの巨大な通気口もそうだが、スクエアーと違う不定型なフォルムを選ぶと、見る側に不安感を与え否定的な意見が多くなる、これは人の持つバランス感覚なのか?それとの生活の中ではぐくまれた後天的なモノか難しいところである つづく
デュシャンの偉大さは作品ではなくその思想にあると思います。ですから作品そのものになんの魂もないのは当然で「抜け殻」でなくては彼の主張したいこと、狙いどおりにならないのですね。 芸術などといっても創作などたかだかモノの寄せ集めで、たとえば絵の具ですら画家は自分で作れず、所詮ヒトの作ったものを寄せ集めてでしかモノヅクリなど出来ない、揶揄がレディメイドだと私は思っています。今の時代から見れば「ありきたりの表現」に見える作品も「最初にやった人」だからこそ値打ちがあって、はじめて「無価値なものの寄せ集め」とい...... more
美術館が地下にあるほうがいい、と私も思います。センスはともかく、無駄に広いけど美術館の場合は無駄もオッケーです。これが駅なら許せません。だから京都駅は嫌いです。