家庭環境がそうだったのかどうか判らないのだが、お寺や神社で手を合わすことは滅多にない、知識としての宗教はあるが無宗教である、子供の頃は祝日にはどの家にもあった日の丸を玄関に掲げて喜んでいた、高校時代に政治に興味を持ちだしたのは自然の成り行きだった、君が代や日の丸のなんたるかを知り敬うことを辞めてしまった
親しき人の訃報に接したときは無意識に手を合わせ心から冥福を祈る、犬や猫が死んだときも両手を合わせた、手を合わせること以外の表現方法を知らないこともある
大阪府庁の入社式で新入社員の君が代斉唱の声が小さいと橋本はぼやき、学校でちゃんと君が代を歌ったか手を上げさせたそうだ、私だったら入社式早々にトラブルを起こし首になっていたかも
先日のチベット展を見たときも考えた、曼荼羅を見ても古い神社仏閣にふれたときも独特の波長を感じることがある、これはでっかい風景を見たときに感じるバイブレーションに似た周波数でもある、昔ミラノの賛美歌の流れる教会の回廊を一人で歩いているときも感じたのだが、宗教と言うよりこのまま浸っていると異郷の世界へ引き込まれるような怖さとワクワク感があったのだが
教会や神社仏閣はやはり「霽れ」の場である、日常では味わえない時間を与える空間であり、目的は違えども今で言うディズニーランドやUSJの仕掛けに似ていなくもない
誰もがご存じの京都円山公園のしだれ桜は大きく豪快である、別名「祇園枝垂桜」とも呼ばれているのだが、まさに名の通りである、円山公園は明治に出来た京都で一番古い公園で桜は昭和に入ってからだそうだ、長い間の京都の色々な桜を見てきたからか大阪の桜はどうももう一つである
写真の基本は相撲と同じで引き技を使うと親方に怒られる、とりあえず寄って寄って押しまくる、早い話が大阪の桜は引くと花を台無しにする碌でもない借景が入ってくるのだ、と言う私は写真技術というものを一度も教えて貰ったことがない