子猫殺し

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動物愛護と板東女史
記事が出たのが8月18日の日経夕刊、それについての毎日新聞掲載が8月24日朝刊
今話題になっている直木賞作家板東真砂子さんのコラム、プロムナードに書かれた「子猫殺し」のことなのだが、すぐに何らかの意見を書こうと思ったのだが書けない、未だに迷っているのが本音である、そして今から書くこともここに書いていいものか、ましてや私自身の問題として本当に考えていたのかすらあやふやなのである(注:上の写真は今日の話と無関係です)

毎日新聞に掲載されたその日に私の友人が日経の記事をFAXしてくれた、すぐに読んだのだが簡単に非難できない要素を含んでいることに気づいた
彼女は飼い猫が産んだ子を野良猫対策と殺していることを告白した・・・・この話を聞いたら誰でもなんて残酷で無茶苦茶なことをこの女はやるのだ!と思うに違いない、事実私もそう思ったのだから
彼女は「避妊手術も、生まれてすぐの子猫を殺すことも同じことだ」と主張している、そして「人は生き物に対して避妊手術を行う権利などない、生まれた子を殺す権利もない・・・・そして痛みも悲しみも引き受けていると」

「山姥」で直木賞を受賞その後、映画「死国」「狗神」の原作者でもあり現在フランス領タヒチ島に住んでいる、送られてきた日経の彼女のコラムを何度も読んでみた、読んでいる内に簡単に拒否できない自分がいることに気づいたのである、私自身京都時代に多いときで猫4匹(三毛1匹・シャム1匹・ペルシャ2匹)、犬2匹(雑種)飼っていたことがある、そのほとんどが雌で季節になると順次子供を産む、勿論そんなにもらい手はなく残った子猫は保健所行きになるわけで、己の手を汚さず保健所というシステムを使って猫殺しをしたのは事実なのである

板東女史の言う、生まれないように避妊手術をするのも生まれた子猫を殺しても同じことという考えにはかなり無理があるが、そこには完全否定できない要素を含んでいる
話は飛躍するが侵略戦争でさんざん人殺しをした挙げ句、戦火が収まると負傷した生き残る兵士をヘリで従軍医師を呼び必死の手当をする・・・なんと矛盾していると何度考えたことか
現在もテロ撲滅と称し誤爆だらけのロケット弾やクラスター爆弾を連日ぶち込む、停戦で戻ってきた100万近いレバノンの住民の半分以上の自宅が破壊されていて住む家すらない

愛玩動物として犬や猫を飼うこと自体が、人のわがままに根ざしていると言う彼女の意見はある意味正しいのである、人は神ではない被害を及ぼすならともかく他の生き物の「生」に関しちょっかいを出すのは間違っていると言う考えも正しい

彼女の最後に書かれた「殺しの痛み、悲しみも引き受けてのこと」と言う一文には責任逃れの匂いを感じるのだが、真正面から反論できない私がいるのは事実である
だったら私が猫殺しが出来るかと言えば絶対に無理で、やはり言い逃れの口実として保健所のお世話にまたなるに違いない

たまたま読んでいた渡部義道氏の「猫との対話」の中で、仏教の戒律から考えると「猫は鼠を生け捕って殺して食う動物である、戒律は殺生を禁じている。よって猫を飼うことは戒律の許さぬことである」
江戸幕府が出来る前、大日如来の再来と言われる高僧と猫との間で鼠について論議が交わされたことを「猫の草紙」に書かれているのだが、高僧は先ほどの戒律で猫に殺生を辞めるように言うのだが、猫は「人間は米をもってこそ五臓六腑をととのえる、われわれも天道より食物を与えられており鼠を食べれば無病にして飛びあり・・・しかるに同心・・・」
戒律を持って諭す高僧と弱肉強食の生存権を主張する猫、まるで現代社会を代弁しているよな気がするが、最近は完全に戒律が影を潜め弱肉強食のみが大手を振ってまかり通っている、何故か仏教は猫にだけ不合理な戒律を与えるのは猫に対する消しがたい不振と疎外があるからだそうだ、確かに涅槃図にも十二支にも何処にも猫は登場しない
しかし人間の実生活では鼠を捕ること故に犬より上位に置かれているのは皮肉でもある

しかしここまで書いて彼女の「子猫殺し」に対する何の批評も反論にもなっていなのには自分ながら情けない、オームの時も神戸大震災の時も同じ自己矛盾を感じ今もそれを引きずっている
by PUSH-PULL | 2006-08-27 08:32 | ご託&うんちく | Trackback | Comments(0)

珍しく我が家のマイマイが甘えに来た、正式名は「シャー・アズナブール・マイマイ」と申します


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