エノキ=榎?

エノキ=榎?_b0057679_10171894.jpg
遊離する言葉の意味
このブログを昔から見ている人なら判るかも知れないがこのエノキの写真は2度目の登場である、しかし前に載せたときは「榎」の木しっかりと括られていて、その時はカタカナと漢字の持つ意味の違いについて書いたように思う

しかし今回はカタカナの札だけ・・・一度地面に落ちているのを確認したがその後誰かがフェンスにくくりつけたようだ

言葉はまだ音として発せられたとき前後の関係とかイントネーションとかで言葉の持つ意味を把握できるが、文字になると意味性が希薄になることがある、それが「かな」や「カタカナ」になるとその傾向はいっそう強まり、単語の場合は意味不明になることさえある

人生で思い出せない記憶は無いことに等しい・・・このブログで書き始めて何時も思っていることで書くと言う行為の中で突然昔のことを思い出したりしてビックリすることがある、多分脳の奥底深くの壁に小さくシミのようにへばり付いて、何処かの馬鹿な学芸員ののような行為が無かったおかげで風化せず剥離せずに済んでいたようだ

「我思う故に我あり」もこれに近い考え方かも知れない、前に読んだ解説本「現代思想のパフォーマンス」の中のソシュールに感化された考え方であることは間違いない(笑)

しかし横文字文化圏と日本語文化圏とはソシュールの計り知れない部分も存在するのではないだろうか、確かに名前を付けることによって「モノ」が存在することは間違いない、しかし命名されたモノが「エノキ」「えのき」「榎」ではモノの存在がまるで違うのではないだろうか

この写真の「エノキ」の場合は言葉の意味さえ拒否しているようにさえ思われる、こうしてフェンスに取り付けられた文字だけを見ていると、単なる図形あるいは線の組み合わせに近いのではないだろうか
その存在はまるで思考あるいはアートの世界に近いよう感じた
by PUSH-PULL | 2006-06-29 10:25 | ご託&うんちく | Trackback | Comments(0)

珍しく我が家のマイマイが甘えに来た、正式名は「シャー・アズナブール・マイマイ」と申します


by PUSH-PULL